倉渕村の文化財
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10.jpg 1 小栗上野介忠順の墓
幕末開明の人、上野介は遣米使節の後、勘定奉行などの要職につき、横須賀製鉄所の設立を初め日本の近代文化のために多くの業績を残した。主戦論破れ権田に隠棲したが、「反逆の企て」あるとされ非業な最後を遂げた。東善寺境内に小栗上野介父子の墓がある。
105zasunomoris.jpg 5 榛名山座主の森
 榛名山座主、快尊・忠尊・快承の墓といわれる塚である。鎌倉末期と推定される板碑や五輪塔の一部が残されている。榛名山の支配権をめぐる争いが、当時の南朝と北朝の勢力に二分され、南朝方の快尊らは、北朝方の頼印と烏川沿岸で争い滅亡したという。
106sinteraato.jpg 6 石上のしん寺跡
 南北朝時代、榛名山満行寺座主の寺跡である。続群書類從などの記録によれば、榛名山の名僧頼印がこの寺を里坊としていた。頼印は足利幕府の黒幕的存在として鎌倉で活躍した僧である。現在は畑になっているが、寺跡から観応元年の五輪塔が発見されている。
107gondakuriges.jpg 7 伝説 権田栗毛終焉の地
 熊谷次郎直実の愛馬権田栗毛は一ノ谷の戦いで傷つき、介抱されて生地の権田に帰ったが、すでに生家は絶えてなかった。栗毛は主人の許に帰ろうとしたが、途中土城谷戸で逆水を飲み遂に倒れた。里人はここに馬頭観音を建てて葬った。生地にはお母衣明神がある。
108fujituruhimes.jpg 8 箕輪城主夫人藤鶴姫の墓
 永禄9年箕輪城落成の時、業政夫人藤鶴姫は家来と共に城を脱出してきたが、途中で敵に囲まれ家来に防がせて一人逃れてきた。高野谷戸の辺で「オーイ」と呼ぶ家来の声を敵と思い自害してしまった。家来はこの地に墓を造り姫の霊を供養したという。
109soukaijyous.jpg 9 僧戒定の供養塔
 戒定は寛延3年、永井家に生まれた。20歳で豊山に入り、のち大塚護国寺さらに、豊山に登り地蔵院に住し、享和3年には江戸中野の宝仙寺の第40代の住職になった。著書には「二十唯識帳秘録二巻」をはじめ多くの名著がある。永井家の庭前に供養碑がある。
110ogurisyuuennotis.jpg 10 小栗上野介忠順終焉の地
 慶応4年閏4月5日、上野介と家臣3人は捕縛され何の取り調べもなく、翌日水沼川原において斬首された。上野介42歳。終焉の地には、「偉人小栗上野介罪なくして此所に斬らる」と刻まれた碑が、昭和7年地元の有志等によって建てられた。
111jizoutougemitisirubes.jpg 11 地蔵峠道・元禄の道しるべ
 中山道松井田宿から旧細野村を通って地蔵峠越えの榛名参詣道にある。江戸時代榛名信仰が一般庶民に浸透するようになると、かなり利用されていた道である。「みぎは山みちひだりはまついだ」と刻まれた県下でも最古クラスに入る元禄5年の道しるべである
112mizunumayayois.jpg 12 水沼弥生時代住居跡
 後期弥生文化を知る重要な標識的遺跡である。昭和19年から7回にわたって発掘調査が行われ、8戸の住居跡から、この時期の土器の典型とされる樽式土器が多数出土した。さらに鉄鏃・砥石・紡錘車など出土し、稲作と鉄器使用の文化の様相を知ることができる。
113touous.jpg 13 心学者塚越桃翁の墓
 安政年間、岩氷に会友社を設立し、心学を地域に広めた人である。初め室田の清水春斉に師事し、のち自謙舎の菊池冬斉につき修行した。桃翁の心学が地域に与えた教育的感化は大きい。明治29年、地元の子弟や有志は元岩氷小学校々庭に顕彰碑を建立した。
114teisyuns.jpg 14 文学者塚越停春の墓
 明治21年、郷里の小学校の教職についていたが、烏渕村自助会を設立、全国に先駆けて廃娼運動に活躍した。のち民友社に入り、その文筆は多くの共感をよんだ。明治39年から41年間、東京市史編纂に尽力した。昭和8年東京市から自治功労賞が贈られた。
115daimyuujinyamas.jpg 15 大明神山の砦跡
 戦国時代後期の築城で、真田昌幸が北条勢の吾妻侵攻に備えて築かせたものであろう。本丸は烏川を望む断崖の上にあり、狼煙台にも利用されていた。麓に浅間神社があり、戦国時代には浅間寺があって、修験道大宝院がこの城の烽火師であった。
116tenguyamas.jpg 16 天狗山の古城跡
 大明神山の砦の南約500メートルの地点にあり、古城と呼んでいる。頂上には天狗が祀られている。麓は前内出という地名が残り、砦の範囲を示している。真田氏の築城と考えられ、大明神山の砦と併せて、別城一廓である。東の麓には東善寺の前身の寺跡がある。
準備中 17 鑰掛城跡
 南は相間川に望む断崖絶壁の細い尾根に沿ってつくられた並廓式の城である。この城は松井田方面からの進入を防ぐ要害城で、岩櫃城主斉藤氏が里見兵庫頭を破って、この地域を占領した頃築城、後真田氏に属し天正17年頃に小田原勢に攻略されたものであろう。
118gondajyous.jpg 18 権田城跡
 自然の地形を巧みに利用した不規則な珍しい形式の丘城である。伝承では権田淡路守の居城といわれる。永禄年間武田氏が西上州に侵入してきたとき、大戸浦野氏に支配された記録が残っている。付近から鎌倉期の板碑や五輪塔などが発見されている。
119masasiges.jpg 19 刀工上州権田住政重屋敷跡
 戦国時代から江戸末期までその系譜をもつ刀鍛冶である。刀銘は古刀期から「政重」があり、江戸期に入ると「金重」の銘も見える。権田政重の系譜を継ぐ蟻川若狭守は、北毛の鍛冶職人を統括し、沼田の土岐市や川越の松平氏に仕えて鉄砲鍛冶として活躍した。
120oguriteis.jpg 20 観音山小栗邸跡
 江戸から権田村に隠棲した上野介は、東善寺を仮住まいとし、観音山に田畑と用水路を開発し、邸宅の普請をすすめた。しかし、それも、西軍から「陣屋厳重に構え」と追討の口実となり、完成には至らなかった。用水路は今も利用され屋敷跡には礎石が残されている。
121tonyabas.jpg 21 善光寺道問屋場跡
 川浦から高芝を通って鳥居峠から東善寺道はかなり利用されていた。この道は山が深かったので、途中問屋が設けられていた。これが高芝の「峰の問屋」で飲料水も近くにあり、善光寺参りの往来で信州からの物資の中継ぎ点でもあった。
122gokaisys.jpg 22 幕府御用材搬出御会所跡
 川浦山御用材搬出の事業は吾妻郡大戸村の加部安左衛門、勢多郡水沼村の星野七郎右衛門が請け負った。御会所は陣屋とも呼ばれ、仕事を監督する所であった。この会所には役人が寝起きし、大勢の杣人や日雇い人夫が棚外に小屋がけをして仕事にあたっていた。
123takasibagakous.jpg 23 高芝学校跡
 大正時代、高芝地内では植林や炭焼きの人達が100人以上に達していた。その人達の子弟の教育をする小学校が有志によって設立された。生徒は20人余りであった。教師は安中士族の渡辺忠雄夫妻で、大正9年教育功労者として表彰された。昭和5年頃閉校した。
124kidozawas.jpg 24 善光寺道木戸沢番所跡
 川浦の善光寺道は中山道の碓氷関と信州街道の大戸関にはさまれた間道であったため、月並に番小屋が設けられた。江戸時代には、坂下五ヵ村の課役として各村から毎日2人ずつ日夜勤め、非常時には8人に増加される警戒ぶりであった。
125tubakinajinjyas.jpg 25 椿名神社の大銀杏・大けやき
 銀杏の樹高は34メートル、目通り6.8メートル、根元廻り10メートル、地際付近は北側にある杉を抱いている。県内で4番目の大銀杏である。けやきは社殿の奥にある。樹高32メートル、目通り6.4メートル、根元廻り8メートルで県内屈指の大けやきである。
126ookaedes.jpg 26 浅間神社の大かえで
神社境内の入口付近にあって、幹はやや北側に傾斜し、1.3メートルの所で3本に分かれている。樹種はオオモミジで、樹高は11メートル、目通り3.1メートル、根元廻り3.2メートルで県内でも屈指に入る大かえでである
準備中 32 洞窟観音
 水沼の痩尾根の沢にある。幅4b、高さ2b、奥行6bほどの洞窟に3体の観音像が安置されている。正徳二年の銘がある。伝承によれば、江戸時代この洞窟で賭博に耽り、刃傷ざたが多く起こったので村の僧侶や名主、女衆が鎮魂と供養のために建てたという。
準備中 33 全透院と栗崎城
 延徳元年に木部新九郎が開基し、大永年間に大戸浦野氏が中興開基となり堂宇を建立した。境内には由緒のある地蔵堂、庭園と石垣がある。裏山一帯は栗崎城跡で全透院はその居館である。木部氏のあとに浦野氏の居城となりのち北条氏の配下になった。
準備中 34 水沼の獅子舞
 判官流佐々良獅子舞といい、400年の伝統をもつ。その昔越後から伝わってきたといわれる。昔は相間、中尾の両地区で祀る諏訪神社の獅子舞といわれていたが、いまでは水沼神社の獅子舞となっている。毎年10月の水沼神社の宵祭りに奉納されている。
準備中 35 戸榛名神社の勝軍地蔵
 伝承によれば、明治維新の廃仏棄釈のとき榛名神社にあった勝軍地蔵も危うく焼かれるところであったが、氏子がここに移し難を逃れたという。木造で、岩の上で馬にまたがり唐風の兜を被っている。戸榛名神社は榛名参詣路の入口に勧請した神社である。
準備中 36 浅間神社の百庚申
 碑の四面に青面金剛像を百体浮き彫りにしている珍しいものである。「寛政六年甲寅天六月如意日」の紀年銘がある。一面に25体の像が刻まれて四面となる。数の多いことを吉とする風習から造られたものであろう。村内の長井にも一本ずつ刻んだ百庚申がある。
準備中 37 榛名神社の太々神楽
 里神楽といい、笛、大太鼓、小太鼓の音にあわせて舞う神話を題材とする黙劇である。演者は登場神を象徴する面をつけ、御幣・矛・剣・鍬・鈴を持つ。大正6年群馬郡六郷村(現高崎市)の烏子稲荷神社の里神楽から伝授をうけ、以来春秋二回の祭に奉納する。
準備中 38 元享の板碑
 元享二年の板碑一基と「葵巳七月三十日」と確認できる鎌倉期の板碑一基がある。烏川流域地方では最古のクラスに入る板碑である。もと、権田城跡付近から発見されたものでこの地域の土豪か在地武士の供養碑と推定され、権田城築城主との関連が考えられる。
準備中
39 権田五名石 − 鳴石
 権田五名石(剣磨石・動石・立石・夫婦石・鳴石)の一つである。大きな石の中が空洞の部分が多いため、軽く叩いても「コーン」と響くことから起こった。榛名登山道の途中にあり、付近から縄文・弥生・土師遺跡なども発見され、祭祀遺跡との関連が考えられる。
準備中 40 川浦の獅子舞
 諏訪神社に奉納する舞楽で4月20日の春祭に奉納されている。諏訪神社は元和2年信州上田市在生島足島神社から勧請されたと伝えられ舞歌の中に「キョウデウマレテイセソダチ」の歌があることから関西から信濃をへて、この地に伝えられたと考えられる。
準備中 41 角落山と大天狗(石宮)
 角落山(1382b)頂上にある石宮である。「げん八二年九月吉日」と紀年銘がある。角落山は古くから天狗信仰の山として麓の人々をはじめ多くの人に崇められた。天保年間にこの付近から御用材のケヤキが大量に伐り出された。天狗にまつわる話が残っている。
12701otiais.jpg 27 落合の道祖神 −(1)
 風戸峠をこえて榛名神社へ通じる参詣路と草津・信州街道の旧道にある。この道は天明6年奈左勝皐「山吹日記」のコースにあたる。「宝暦十辰天極月吉日中原村中」と刻まれた道祖神は、浮世絵を思わせるような夫婦和合の姿を見せる変わった形のものである。
12863kumakubos.jpg 28 熊久保の道祖神 −(63)
 「寛永二年乙丑十一月吉日」と刻まれた県下で最古の僧形の双体道祖神である。その立像は地蔵を感じさせる古い形式のものである。この道祖神は尾根を越えて亀沢に出る古道にあったといわれ、この地域では戦国時代からすでに信仰されていたものと考えられる。
122964nagaikawanisis.jpg 29 長井の道祖神 −(65)
 長井を通る街道は信州の旅人や草津入湯者で賑わった古い街道である。その街道筋にあった道祖神で、元禄5年の元禄ひな型と、おこそ頭巾を被ったものなど六体が集められている。おこそ頭巾を被った双体神は優雅で「旅は道ずれ」風の微笑ましいものである。
13029simosuwajinjya.jpg 30 下諏訪神社の道祖神 −(29)
 数ある絵姿像の中で、大きさ、造像技術共に抜群である。優雅で気品をそなえた姿態は見る人を魅了する。「天明八戊申十月吉日」の銘があり、天明3年の浅間山大噴火をはさんで数年の飢饉を克服し、将来への希望と自信を感じさせる雰囲気につつまれている
13173motomisawa.jpg 31 猪毛の道祖神 −(73)
 男神・女神が別の石に刻まれた単体の珍しい道祖神である。戦国時代、元三沢の下家が三河の国からはるばる背負って来て守護神として祀ったという伝承がある。5月5日が祭日で、この道祖神は万病を治してくれるものとして近在の信仰が厚い。

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