18 史跡 権田城跡

 城は上ノ久保から東は、北は、南は花輪に至る南北に300メートル、東西最大幅150メートルの細長い丘陵を利用して築かれ、腰郭、空堀、土居の一部が残っている。

 東西50メートル、南北40メートルの本丸と、その南側の空堀と接して二つの丸が続き、城の西側は急崖となっている。大手は南、搦手は北にあり、北西には珍しい笹郭がある。

 口碑によれば、権田淡路守の居城であるといわれている。この城ははじめ箕輪の長野氏に属していたが、のち武田氏に支配された。

 永禄7(1564)年ころ、真田幸隆が岩櫃城を攻めた時、大戸城主大戸真楽斎と舎弟の権田城主大戸但馬守は幸隆に降伏し人質を出したという。

 城跡の南方の近くには権田城の抱え刀工権田政重の屋敷跡がある。また、権田城跡からは、鎌倉期の板碑と南北朝期から戦国時代にかけての五輪塔が発見されている。

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