2002.04/05
安積艮斎の塾 坂本藤良著 『小栗上野介の生涯』より | ||||
少年時代の忠順は、塾に通った、といっても、塾は小栗長屋にあった。それは、当時一流の 学者、安積艮斎の塾であった。 艮斎は寛政三年(1791年)三月、陸奥の国安積郡郡山の生まれで、父は安積国造神社の 神主であった。名は重信、字名は思順、通称祐助、そして艮斎と号した。幼児、二本松藩の藩 儒に儒教を学んだが、のちに江戸にでて佐藤一斎の学僕となり、ついで林述斎について学んだ 彼文化三年に伯父の今泉家に婿入りしたが容姿がよくない上、日夜読書に浸り日常の雑務に 無関心だったので妻に嫌われて、一年余りで今泉家を去ったが小栗家屋敷内の長屋に塾を開い たのは文化11年(1814年)であったといわれ、天保2年小栗屋敷の長屋を借りて塾を開いてか らのち、さらに学問に磨きがかかり、日本全国にその名を知らせた。 天保14年(1843年)には二本松藩候の教授に迎えられ、一時、二本松に移ったが、まもなく 江戸に戻り、嘉永3年(1850年)、遂に昌平黌教授に迎えられた。当時昌平黌といえば、日本最 高の学問所であり、昌平黌教授は今の国立大学教授よりもはるかに権威を持つ存在であった。 艮斎は進歩的な思想をも理解し、渡辺崋山、高野長英らとともに交わりがあり、又、アメリカやロ シアの書物の訳もおこなった。 日本全国に艮斎の学名をしたって、彼の塾に学ぼうとするものが多かったが『明治維新人名辞 典』(吉川弘文館刊)は、代表的な門弟として次の9人の名前をあげている。 栗本鋤雲(くりもとじょうん)、小栗上野介(おぐりこうづけのすけ)、川路聖謨(かわじとしあきら)、 高杉晋作(たかすぎしんさく)、岩崎弥太郎(いわさきやたろう)、中村啓宇(なかむらけいう)、 神田孝平(かんだたかひら)、 福地源一郎(ふくちげんいちろう)、大須賀いん軒 なお、艮斎は貧窮時代に小栗家からうけた援助を深く感謝していたらしく、彼の名声が、二本松
藩に迎えられたときも、小栗屋敷内の塾は閉鎖せず、また、昌平黌の教授として迎えられた のちですらも、この塾を残したままで、万延元年(1860年)3月没するまで、この塾はつづけられた という。 小栗上野介が艮斎の塾に通うようになったのは、天保5年(1834年)満6歳の時からであったと いう。もっとも、幼い忠順が直接教えを受けたのは、 高弟の森田禎介、庫石典太であったと思われ る。 |
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□■艮斎先生自筆の授業録。を見たくて 小僧は和尚にくっついて郡山に向かった。 | ||||
艮斎先生銅像
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艮斎自筆の授業録。門人2282名の氏名来歴を記す。 | |||
→ 左より 村上住職 安藤智重宮司 地元のタウン誌「街こおりやま」 の編集長伊藤和さん |
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